1.建築音響にできること
■建築音響にできることは何か
建築音響とは、単純に音環境を測定し評価したり、今までの考え方で設計したり、というだけではなく、「生活空間の一要素である音環境の向上のため、同質の音環境を低リソースで合理的に実現する」ことを目指すものです。その対象は、建築空間や都市空間などの生活空間であり、そこにいるさまざまな人です。
現在の日本の建築音響は、技術的には任意の音環境を実現できる状況です。「空間内の音の伝搬」「同一空間内および異なる空間の間での音の遮蔽」「振動の遮断」のそれぞれについて、技術が確立されています。
しかし、なぜ一定の建築音響を実現しなければいけないのか、たとえば教室の残響時間を0.7秒にすると何がいいのか、という点はかなりあいまいです。これは、純粋に音響的な要因だけを取り出すことが難しいためです。建築音響に関連する学会では、そのゴールを見つけるための心理的な評価技術、あるいは音場の可聴化および可視化技術も追求しているところです。
■建築音響が目指すゴールとは
ここで、建築音響が目指す空間および空間要素の持つべき性能について考えてみましょう。(図1)
1番目は「必要な音情報の伝送」。後ろから車が来たなど、「安全や危険といった状態を示す音情報」。カーナビの音声指示のような「人が行動を行う上で必要な音情報」。さらに、コンサートや講演会など、「目的に応じた音情報を要求されるクオリティで供給する」ことも挙げられます。
2番目は「不必要な音情報の遮蔽」。これには「ある人の行動に不必要かつ妨げとなる情報を他から伝達されないように制御できること」と「ある人の発した情報が不特定かつ不必要な他に伝達されないように制御できること」があります。患者さんの診療内容が他の患者さんに聞こえないようにする“病院内のスピーチ・プライバシー”という新しい分野は、後者の例です。
3番目は、「不要な音の制御」。たとえば、音楽を聴くためには、NC(騒音評価)が15とか20という低騒音空間が必要であるとされています。
4番目は、「積極的な快適感の提供」。ただ、これは人によって快適感を感じる要素が違うので、今のところ、どうやれば実現できるのかは分かっていません。
こうした建築音響を考える上で大切なのは、「空間の『持つべき性能』の定量化」という命題です。ある空間において「持つべき性能」を達成するためには、どんな要素をどの程度制御すべきかが、具体的に分かっている必要があります。そのためには、物理的な評価技術が確立され、実現すべき性能と物理量の結びつきが明確にされ、行うべき設計技術として具体化されなければなりません。この手続きが、特に実現すべき性能という点でまだ徹底されていないわけです。
■理想的な教室の音響を「定量化」する
「持つべき性能の定量化」の実例を、教室音響でお話ししましょう。実現すべき性能は「(授業に慣れていない)小学校1年生が、きちんと先生の話を聞き取れる音環境にする」と想定しておきます。
早速出てくるのが、「きちんと聞き取れる」とは数値的にどういうことか、という問題です。ここでは仮に「95%以上の簡単な単語が聞き取れる生徒が全体の90%以上となること」としておきます。これが先ほど触れた命題を解くカギ(「持つべき性能の定量化」)です。
この定義に基づき、まず先生の声の大きさと騒音の比率(SN比)によって単語了解度がどう変わるか、1・3・6年生を対象にテストしてみました。すると、SN比が低い(先生の声が騒音にのまれる)状況では、とりわけ1年生の了解度が顕著に落ちます。一方、SN比が高い(先生の声がよく通る)状況では、どの学年の了解度もほぼ同じでした。さらに、最初の定義が実現できるSN比は、6年生で10dB、3年生で16dB、1年生で20dB以上必要だと分かりました。(図2)
教室のSN比は、騒音と先生の声のレベルで決まります。測定すると教室の騒音は50dB前後、先生の話し声は60dB前後と分かりました。SN比20dB以上を実現するには、先生に10dB分の大声を出してもらうか、騒音を10dB下げる必要があります。(図3)
一方、教室には奥行きがあり、前と後ろで音響は変わります。測定してみると、2mから6mの位置で5dB程度偏差があることが分かりました。つまり、騒音レベルを一様に10dB抑えただけでは、後ろの席でSN比20dBは確保できません。これを防ぐには、先生の周囲の反射音(初期反射音)のレベルを上げ、後ろで適当に吸音する設計が望ましいといえます。
以上、この程度の定量化された情報があれば、先ほどの命題は物理的に何とか実現できそうかな、と思えます。ただ、空間やイベントによっては、そう簡単にはデータを測れないこともあって難しいところです。
なお、必要な音響性能を得るのには、必ずしも建築音響にこだわる必要はありません。教室音響であれば、空調機を低騒音型にしたり、生徒との距離を縮めて話せば、先生が大声を出さなくてもSN比20dBは確保できるでしょう。こういう部屋の使い方も含めて、「音環境はこうなります」と言えるようになれば、オープンプランの教室なども使いやすくなると思います。
2.アクセシブルデザインと標準化
■アクセシブルデザインの発想と標準化のメリット
アクセシブルデザインという言葉は耳慣れないと思いますが、簡単に言えば「〜できない」を「〜しにくい」に、「〜しにくい」を「〜しにくくない」にすることです。また、「〜できない」場合に別の手段を用意することも役割のひとつです。アクセシブルデザインの発想とは、「より多くの環境や製品が」「より多くの人々の身体、感覚、認知機能などに合わせて」「より多くの不便さを解消するようにする」ことです。ちなみに、「より多く」を「すべて」に代えると、ユニバーサルデザインの発想になります。
アクセシブルデザインを実現する手段は大きく3つあります。1番目は、「修正・改造することなく、ほとんどの人が利用できる設計」。たとえば、耳が遠い人でも確実に薬が受け取れるよう、病院窓口の音環境を設計するといったことです。2番目は、「必要に応じて改造できるような設計」。画面が見づらい人のためのパソコンの音声サポート機能などが好例です。3番目は、「福祉用具などとの互換性のある設計」。車イスを運ぶためのレールが着いている階段などです。
アクセシブルデザインの標準化には、いろいろなメリットがあります。まず、マーケティングツールとしての側面。たとえば、ネジの規格にはインチネジとミリネジがありますが、日本でしか使えない寸ネジはありません。規格が国際的に標準化されているから、よりよい製品が効率よくでき、市場も広がるわけです。
第2は、他の商品との差別化です。アクセシブルデザインを取り入れているということが、商品の優越性のアピールになるということです。
第3に、より高度な技術を社会に広める可能性です。「アクセシブルデザインをうたうなら、音環境はこうでなければ」という提案をいろいろ盛り込んでおけば、高齢者・障害者に配慮したモノが多数造られるようになるでしょう。結果として、より高度な音環境を社会に普及させることができれば、と考えています。
なお、アクセシブルデザインの標準化を進めるには、高齢者・障害者と一般的なユーザーの違い、さまざまな「配慮」の必要性について具体的・定量的に考える必要があります。産業総合技術研究所では、考慮すべき事項を7分野にまとめた「ISO/IECガイド71」やガイドラインとなる「ISO/TR22411」、さらに電子音などの標準化規格の作成に取り組んでいます。(図4)
■高齢者にこそアクセシブルデザインを
今回、音環境のアクセシブルデザインにおいて、高齢者を取り上げたのは、いくつか理由があります。
第1は「社会の高齢化の進行により、高齢者を一般ユーザーとして位置づける必要が生じていること」。第2は、「高齢者の環境に対する要求性能が、若齢者よりも高いこと」。逆にいえば、高齢者向けに商品を作ることが、製品や空間の質を高めるということです。第3に「高齢者をターゲットに設計を行えば、よりよい音環境を提供できること」。第4に「製品・サービスの差別化」。高齢者に対応することで、そうでない製品との差別化が図れ、市場も拡大できるわけです。
ちなみに「高齢者」とは、一般に満65歳以降の人を意味しており、75歳未満が前期高齢者、75歳以降が後期高齢者と区別されています。また「高齢社会」とは、高齢者の総人口比率(高齢化率)が14%を超えた状態で、日本はすでにこの段階です。2060年ごろには、日本の高齢化率は約56%でピークを迎えると予測されていますが、現在でも高齢化率は3割近く、購買層では4〜5割になります。高齢者=ユーザー層と捉える必要性も、それだけ高まっているわけです。(図5)
3.高齢者の基本的特性と聞こえの特性
■高齢者の聞こえの特性とは
高齢者の特性はまず、視力、聴力などの感覚器官や環境への順応力・適応力、回復力など、さまざまな機能の衰えです。ただ、その程度は人により、また同じ個人でも機能ごとに違います。つまり、「機能的にアンバランスな状態の高齢者が多く存在する」わけです。
また、衰えが徐々に進むため、本人の自覚は遅れがちです。さらに、衰えを自覚していても、そうでないように見せる場合があります。60〜80歳代の261人に音についてアンケートしたところ、大半は「困ることはない」という回答でした。ところが、個々の場所を指定すると「駅がうるさい」「空港がやかましい」などの意見が結構ありました。「問題ない」と言っているから、それでいいのではないわけです。
次は、高齢者の聞こえの特徴を挙げてみます。
まず、「老年性難聴」。特に2000Hz以上の周波数で顕著で、8000Hzの場合、70歳代と20歳代では60dBぐらいの差があります。人の声は、母音で100〜500Hz(男性)ないし200〜600Hz(女性)、子音で4000Hz付近に集中するため、「サクラ」と「マクラ」のような聞き違えが、高齢者では増えてくるわけです。
次に「リクルートメント」。ステレオの音量つまみを回していくと、あるところまでは全然聞こえませんが、それを越えると、途端に普通に聞こえる現象です。
それから「耳鳴り」。中には「いつも変な音が聞こえる」など、外から聞こえる音と錯覚する人もいますが、これも聞こえを妨げます。ただ、いずれもかなり個人差があるのは、先に触れたとおりです。
4.音声伝達の評価とアカデミックスタンダード
■音声伝達のプロセスとは
AIJアカデミックスタンダード(アカスタ)とは、日本建築学会が作成し推進している指針です。その中で、私たちは空間内の音声伝達に関するスタンダード(設計目標値)の確立を目指しています。
音声伝達のプロセスは、発声系・伝送系・受聴系によって成り立っています。ある話し手が「サクラ」と言うと(発声系)、それが空間や機器によって伝えられ(伝送系)、聴き手の耳に入って(受聴系)、「サクラ」と認識されるわけです。当然、発声系、伝送系、受聴系、それぞれの状況で状態は変わります。
アカスタの作成では、まず被験者全体での「聴き取りにくさ」の割合と、「聴き取り間違い」の可能性の割合に応じて、伝送性能を4段階にランキングしました。各ランクを適切な物理量と関連づけることができれば、実際の建築への応用が可能になります。(図6)
次に、発声系と受聴系を理想的な状態において、伝送系(建築空間)の条件をさまざまに変え、その結果を測定しました。測定した物理データは、ST(I
SpeechTransmission Index)です。以前は「明瞭度指数」、今は「音環境条件」とでも言いましょうか、ホールなどの室内音場における音声の聞き取りやすさを、0〜1の数値で表したものです。
こうして、空間条件・伝達種別ごとに測定してみたところ、個々の空間の残響時間をある計算式に代入した結果と実際のSTI値がほぼ一致することが分かりました。また、ランキングのベースとなっている「聴き取りにくさ」の数値とSTI値の関連も実測で確認されています。(図7)
つまり、ある空間の残響時間が分かっていれば、そのSTI値がおおよそ分かり、音声伝達性能もほぼ予測可能だということです。これによって音響に関するアカスタを定量化する道が開かれたことになるわけです。
5.高齢者の言葉の聴き取り
アカスタでの実験をもとに、さまざまな音響条件と「高齢者の言葉の聴き取り」の関連をご紹介します。
○聴力レベルとの関係
正しく聴き取れる人の割合(SI値)が、被験者の聴力レベル(PTA)とSTI値の関数として算出できることが分かりました。高齢者のPTA値は年齢で目安がつきますから、あるSTI値を持つ空間で、ある大きさの声でお話しした場合、どの程度の高齢者が正しく聴き取れるかほぼ予測できるわけです。(図8)
○SN比との関係
SI値は、空間のSN比に応じて変動することが分かりました。高齢者が聴き取りやすい音環境づくりでは、騒音レベルを5dB下げる必要があるというのも、このデータから導かれたものです。
○最大音量の設定
ある音量と、それを「大きくない」と感じる人の割合を調べてみたところ、高齢者の50%が「大きくない」と感じる音のレベルは、若齢者より2dBほど低い75dB付近です。逆に、「音量が大きすぎる」と感じる人が50%になるレベルは87dB付近で、高齢者も若齢者も変わりません。この結果、高齢者に最適な音量は70dB以上77dB程度が上限ではないかと考えています。それ以上の音量では、聞こえやすいよりもうるさく感じる人が増える、ということです。
○話速との関係
1秒間に何音節話すかによって、音声聴取成績がどう変化するかを調べたところ、毎秒4.5音節を境に、それ以上速くてもゆっくりでも高齢者の成績は上がりませんでした。次に、音節数と聴き取りにくさの関連を調べると、毎秒4.5音節を境に、特に若齢者の成績が下がります。「お年寄りにはゆっくりとお話しを」と言われる理由が、データ的にも裏付けられました。ちなみに、この話速は、テレビなどのアナウンサーの話速(毎秒7〜10音節前後)のほぼ半分です。(図9)
○1フレーズ中のキーワードとの関係
1つの文章中の情報(キーワード)数と音声聴取成績の関係を調べたところ、キーワードが1〜3個なら問題はなく、4個以上で成績が落ちることが分かりました。たとえば、「8番線に、19時28分発の下り特急『スーパーひたち53号』仙台行きが参ります」というアナウンスより、「8番線に、19時28分発の仙台行き列車が参ります」の方が理解されやすいということです。この傾向は年齢、話速などにほぼ無関係でした。
○ノイズの性質との関係
大きさが一定の定常音、変動する変動音、パーティ会場のざわめきのような妨害話声という3種類のノイズを使い、SN比ごとの聴取成績を見てみました。すると、高齢者では全体にSN比が高くなる上、必要なSN比はノイズの種類にあまり関係しません。これは、変動音や妨害話声のある状況でうまく情報を引き出せる若齢者と異なる点です。たとえば、パーティの中で声をかけられても気が付きにくいわけです。
■音環境の改善で高齢者のサポートを
ここで高齢者・障害者の感覚特性をまとめると、まず「入力情報の劣化」が起こります。耳から脳へと通じる音声回路全体が加齢などで劣化することで、高い周波数の音が聞こえない、早口なので聴きづらい、騒がしくて聴き取りにくいなどの問題が起こるわけです。
ここに、高齢化による「情報伝達および処理の遅れ」が重なると、ますます判断に迷ったり、行動に時間がかかるなど「入力情報の劣化に伴う高次処理への負荷増大」が起こります。これは高齢者のストレスを高めますし、中には家族や他人と話すのが億劫になるという負のスパイラルに落ち込む人も出てきます。
こうした高齢者の感覚特性に対して、私たちが直接補償できるのは「入力情報の劣化」だけです。しかし、ここが改善されれば、「情報伝達および処理の遅れ」が多少あっても、その後の認知・判断・行動というプロセスはかなりスムーズに行われるでしょう。その結果、「入力情報の劣化に伴う高次処理への負荷増大」という事態も避けられるはずです。
その意味で、入力情報の質の向上は、私たちの使命です。たとえば、電子レンジやエレベーター、券売機などの音声案内において、音声レベルやメッセージのスピードなどを考慮することが、「入力情報の劣化」を補うことにつながります。人の話し声や車掌さんのアナウンスを聞きやすくするために電車内の騒音レベルを下げたり、駅構内のアナウンスを聞こえやすくするために反響音を吸音材で抑えたり、といったことも同じです。(図10)
■応用例──駅の音案内をめぐって
最後に視覚障害者向けの音環境について、駅の「ピーンポーン」という音を取り上げます。
これは、国交省の「視覚障害者の音による移動支援のためのガイドライン」で設置が望ましいとされているもので、音のする方(音源)に向かって進むと、出入口や切符売り場、改札などに着けるようになっています。しかし、実際には「ずっと聞き続けてうるさい」という駅員さんの声があったり、「音源の方向が判断しにくい」という視覚障害者の人の意見があったりで、本当に役立っているかが一部で疑問視されています。
そこでまず、いろいろな人について、音による方向判断の実験データを集めてみました。
○左右より前後が間違いやすい
視覚障害者と健常者で実験したのですが、被験者の左右に音源がある場合はほぼ間違いません。しかし、前後にあると障害の有無に関係なく、間違う人が増えます。現在実験中ですが、特にお年寄りに顕著なようです。(図11)
○判断時間が短いと間違いやすい
同じ視覚障害者にいろいろな音を聞かせて、音源の方向を判断してもらったところ、方向が分かるまでの時間が短いほど間違いが多く、長いと少なくなることが分かりました。つまり、音源の方向を確かめる余裕がない場合、誰もが間違う可能性があるわけです。
○残響が間違いに影響する
音源のある場所がよく響く場所だと、音源方向を間違いやすくなります。音の種類や残響条件によっては、バラバラな結果が出ることさえあります。
私たちとしては、こういうデータを蓄積し、方向判断のデータベースを構築することで、よりよい音案内づくりに役立てることができればと願っています。単純なデータの積み重ねを通じて、定性的な「配慮」で対応してきた音環境づくりを、定量的な「設計」で構築するものへと前進させることが、私たちの研究の使命であると考えています。
※質疑応答は略
図1 空間および空間要素の持つべき性能
図2 95%以上の了解度を得る人数の割合
図3 教室の騒音レベルと音声レベルの頻度分布
図4 「ISO/IECガイド71」に示された考慮事項
図5 年齢3区分人口の推移
図6 音声伝達性能のランク
図7 残響時間とSTIの関係
図8 聴力低下と音声を正しく聞き取れた割合の関係
図9 音声メッセージの設計:話速とキーワード数
図10 高齢者に配慮した音声案内の音声レベル
図11 人の音方向判断特性の測定(前後の間違いが多いことを示す)
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