けんざい239号掲載
通天閣 大阪は下町の歓楽街・新世界の中心にそびえる通天閣。1912(明治45)年に誕生し、昨年100周年を迎えました。現在の通天閣は、1956(昭和31)年に再建された二代目。さらに2010(平成22)年?2012(平成24)年には、100周年に向けて大規模なリニューアル工事が行われました。このリニューアルが話題を呼んで、新世界の界隈は観光客や地元の老若男女で連日あふれかえっています。
「けんざい」編集部
■エンターテインメントに徹した塔・通天閣 「お初天神」や「法善寺横町」とならぶ“ザ・大阪のまち”といえばやはり新世界です。ノスタルジックで、底抜けに明るくて、とにかく「おもろい」。そんな新世界を100年間見守ってきた展望台が、通天閣です。 東京スカイツリー、東京タワー、名古屋テレビ塔、札幌のテレビ塔、神戸ポートタワー……戦後、国内で建設された100mを越えるタワーの数々です。そして通天閣(103m)もそのうちの一つ。ただ、通天閣にはほかのタワーと大きな違いがあるのです。 はじめに挙げたタワーは、電波塔としての目的を持っていたり、企業や自治体が主体となっていたりと、明らかな公共性を持っているのに対し、通天閣は、地元の人々による「浪速のシンボルとなるタワーをつくりたい!」、ただそれだけの思いで建設された、純粋に展望台としての目的しか持たない、究極に娯楽のための展望台なのです。これは、通天閣の根本的なあり方や姿勢をよく表している特徴です。 今回は、通天閣観光株式会社代表取締役社長・西上雅章さんにお話を聞くことができました。 「通天閣は1903(明治36)年に開催された『第5回内国勧業博覧会』の跡地に、新世界とともに生まれました。いわゆる跡地利用だったんですね。初代通天閣は、パリの凱旋門にエッフェル塔を乗せた、奇抜なデザイン。その隣にはニューヨークの遊園地を模したテーマパーク『ルナパーク』。大阪の人々に、“外国”を感じてもらおうという目的があったようです」と西上さん。 ■シンボルを失った新世界の人々、立ち上がる! しかし初代通天閣は、戦時中の1943(昭和18)年に解体の憂き目をみます。そのきっかけは火災でした。鉄骨が曲がってむき出しとなった通天閣は、そのまま鉄骨を国に供与することを余儀なくされました。供与された鉄骨は全部で約300tにもなったそうです。 「新世界は、長らくシンボルを失った状態でした。地元の商店を中心とした人々が、新世界の活性化を目指して『やっぱり自分たちには通天閣が必要だ』と立ち上がったのが1952(昭和27)年のことでした。その実現には大変な苦労があったわけですが」。 通天閣の再建にはまず、資金調達という難問が立ちはだかりました。1954(昭和29)年、地元有志によって通天閣観光株式会社が発足、株券を発行して資金繰りに奔走したといいます。そして施工会社の決定も難航しました。設計図は完成していたものの、資金面や立地条件でリスクが非常に高い物件だったからです。 そんな中、「地元のために一肌脱ぎたい」と男気を見せたのが、奥村組(大阪市阿倍野区)の初代社長・奥村太平氏でした。かくして奥村氏はリスクを承知で着工を決定、1956(昭和31)年には晴れて二代目通天閣が竣工したのでした。 二代目通天閣を設計したのは、「耐震構造の父」として名高い、早稲田大学教授の内藤多仲(ないとう・たちゅう)氏。氏はのちに東京タワーの設計も手がけています。西上さんは「耐震はもちろん、強風にもしっかり耐えられる構造です。日本に襲来しうる最大級の台風の風速を想定し、さらにプラス15mの風速を持つ強風にも耐えられる設計だそうです」と、通天閣の強度に自信を見せます。 新生通天閣には、「世界初」「世界一」「日本一」と、当時の一番をうたう特徴的な部分がいくつかありました。レトロな円形のエレベーターは建設当時、世界初でした。東面の大型時計も(直径5.5m)当時は世界一の大きさで、現在でも日本一を誇ります。また展望台の高さは91mですが、これは当時、日本一だった名古屋テレビ塔の展望台の90mを超えようという意図からでした。
通天閣/
所在地:大阪市浪速区恵美須東1-18-6 TEL:06-6441-9555 URL: http://www.tsutenkaku.co.jp/