2007けんざい
社団法人日本建築材料協会
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けんざい234号掲載


HAT神戸(東部新都心)

幾度となく巨大災害に見舞われながら、その都度、力強く復興を遂げてきた日本人。その最新の実例が、“Happy Active Town”のの頭文字を組み合わせた「HAT神戸」です。神戸市灘区内に、東西約2.2km、南北約1km、総面積約120haに及ぶこの街では、阪神・淡路大震災の教訓に学びながら、未来の発展につながる街づくりが進められました。その構想と経験は、東日本大震災の復興にも大きなヒントを与えてくれるに違いありません。

「けんざい」編集部



■幹線道路に沿って広がるモダンな景観
 JR灘駅から南へ続く道は、「ミュージアムロード」として親しまれています。スマートな大型ビルやマンションが連なる街並みを歩き続けると、道はやがて、広い歩道のある幅40mの幹線道路(東部新都心東西線)に出会います。
 ここは、神戸市の東部新都心「HAT神戸」の中心部。周辺には安藤忠雄氏設計の「兵庫県立美術館」や「人と防災未来センター」など、さまざまな公的施設が連なり、その向こうには、綿密な都市計画に基づいた高層住宅の街並みが続いています。多彩なモダンデザインの建物と青々とした並木道とのコントラストは、この街ならではのものです。
 美術館の敷地を南へ横切ると、そこは開放的な海辺のエリア。水際広場やハーバーウォークによって構成された親水空間では、近所の人々がゆったりとした時間を過ごしていました。その整った風景は、ここが15年前の阪神・淡路大震災の被災地だったことを忘れさせるほど。ここは単なる都心の再開発地区ではなく、震災からの復興という大きな課題を成し遂げた、貴重な街でもあるのです。

■統一された景観デザインが印象的な街
 「HAT神戸」の主要ゾーンは、阪神高速神戸線の南に広がる約75haの臨海部。ここは大きく4つのエリアに分かれています。街の東西に位置するのが、公的高層住宅および民間マンションからなる住宅地区。一方、中央部には、先に触れた美術館や防災関係施設、JICA、神戸赤十字病院、小・中学校などが置かれ、業務・研究エリアと文化・教育エリアを形作っています。
 街を歩いてみてすぐ気がついたのは、統一されたデザインの美しさです。たとえば、東側の灘の浜地区のマンションは、グレーとレンガ調タイルの2色構成が基本。一方、西側の脇の浜地区では、淡いブルーとグレーの2色で、ほとんどの住宅が統一されています。
 また、地区内のなぎさ小学校は、赤茶色の瓦屋根とベージュ系の外壁が、スパニッシュ建築を思わせる独特の表情を見せています。教室のベランダ部分も木目調の仕上げとなっており、学校建築とは思えないていねいなデザインには目を見張らされました。
 もう一つ印象的だったのが、東西の大通り(東部新都心東西線)にかかる歩道橋の数々。月や波や風をモチーフに、アーチ橋風、斜張橋風、エレベーター付きなど、異なるデザインが施されています。多彩な表情は、大通りの風景に変化をもたらすとともに、街を行き交う人々のランドマークとしても大きな役割を果たしているようでした。

■復興計画のシンボルプロジェクトとして
 「HAT神戸」は、どのようにして整備されたのか。神戸市都市計画総局計画部まちのデザイン室に、青木ひろみ主査を訪ねました。
 青木主査のお話によれば、「HAT神戸」の原型となた「神戸市東部臨海部土地利用計画策定委員会報告」がまとめられたのは、1993(平成5)年。当時、この地区には神戸製鋼所や川崎製鉄の工場が広がっていましたが、産業構造の変化に伴って、工場の遊休化が進行。そのため、旧来の重工業地帯から、職住接近の新たな産業拠点となる新都心への土地利用転換が検討されています。
 「その時点では、都心に近接したウォーターフロント立地を生かし、国際的拠点となる研究・物流・業務などのゾーンを設けることが計画されていました。そこに、あの大地震が襲ってきたのです」。
 1995(平成7)年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、神戸を中心とする兵庫県南部にすさまじい被害をもたらしました。マグニチュード7.3の直下型地震による死者は6,400人あまり、負傷者は40,000人以上。さらに、640,000棟近くの建物が全半壊や一部破壊の被害を受け、多くの人々がわが家を失ったのです。
 震災直後、神戸市で求められたのは、膨大な被災者の救助と治療、避難場所の確保でした。しかし、これらが一段落すると、本格的な街の復旧・復興が大きな課題として浮上してきます。こうした過程の中、HAT神戸は「神戸市復興計画」のシンボルプロジェクトとして新たに位置づけられることになりました。
 「『神戸市震災復興計画ガイドライン』が発表されたのが、震災の年の3月。さらに、6月には神戸市と兵庫県それぞれによる復興計画が策定されました」と青木主査。急速な計画決定が決定された背景には、震災で家を失った多くの人々の存在がありました。「大震災で全半壊の被害を受けた家族は、約46万世帯にのぼりました。多くの人が安心して住める家を、早急に用意しなければなりませんでした」。
 「『神戸市震災復興住宅整備緊急3ヶ年計画』では、神戸市内で既存・新築を含めて82,000戸の住宅供給を行うこととされています。その後、被災者に高齢者や低所得者が多い状況を踏まえ、公営住宅供給戸数をさらに6,000戸追加することが決定されました」と青木主査。こうした状況は、「HAT神戸」の計画にも反映されました。
 「脇の浜地区と灘の浜地区は、当初は業務関連ゾーンとする予定でしたが、新たな住宅供給の受け皿として計画全体を見直す過程で、住宅ゾーンに位置づけられました。最終的には、公的住宅・民間住宅(賃貸・分譲)を合わせて約6,000戸の住宅が建設されることになったわけです」。
 こうして見直された計画に基づき、「HAT神戸」が着工されたのは、大震災翌年の1996(平成8)年6月。翌々年の1998(平成10)年3月には、早くもまちびらきが行われています。関係者が総力を結集したからこそできた、スピーディな復興でした。それはまた、神戸復活を全国に印象づける出来事ともなったのです。
 「事前に計画があったとはいえ、これほどスムーズな形で街づくりが進んだ例は、珍しいのではないでしょうか。それだけでも、この復興計画に注がれた関係者のエネルギーがうかがわれます。関係者一人ひとりの胸にある郷土への愛情、神戸への愛着が、この成果をもたらしたのでしょうね」と青木主査。壮大な「HAT神戸」の誕生は被災地の人々を勇気づけ、その余韻は今も街のそこここに残っているようです。



HAT神戸の全体計画

お話いただいた青木主査

さまざまなデザインの歩道橋

さまざまなデザインの歩道橋

さまざまなデザインの歩道橋

幹線道路に沿って連なる高層住宅(灘の浜地区)


■「安全」「福祉」「環境」「活力」をキーワードに
 神戸復興のシンボルとして建設された「HAT神戸」では、先進的なまちづくりの手法が随所に見られます。「震災の教訓をふまえ、多様な都市機能を備えたまちづくりをめざす。それが基本方針でした」。そのポイントは「安全」「福祉」「環境」「活力」という4つのキーワードに集約されています。
 「震災からの復興を掲げたまちとして『安全』は、欠かすことのできないポイントです。平時はもちろん災害時でも、住む人の安全確保を大切にした設計が取り入れられています」。たとえば、各高層住宅の間には、広い通路が設けられており、緊急時の避難路としての活用が想定されています。大通り(東部新都心東西線)に設けられた幅9mの歩道や海側の水際広場も、緊急時の避難場所や防災拠点として役立つ設計となっています。業務・研究エリアに集中している病院なども、災害時には重要な医療拠点となります。
 「福祉」の視点からは、特にバリアフリーに力が入れられています。多くの公共施設や歩道橋には、車イスでも行き来できるスロープが設けられていますし、歩道のそこここにはデザインされたベンチが設置されています。また、大都市共通の問題である高齢化に対応して、介護施設と高齢者向け住宅を一体化した高層住宅が、灘の浜地区に用意されています。
 「環境」の視点からのまちづくりは、地域の緑化に象徴されます。たとえば、大通り(東部新都心東西線)の歩道は、両側に街路樹を連ね、まるで緑の公園のよう。また、歩道に面した建物は約1mセットバックされていますが、この部分も多くが緑化されています。さらに、一部の建物では屋上緑化も行われるなど、鮮やかな緑に包まれた景観は、誕生から15年足らずの若い街とはとても思えません。
 最後に、「活力」の視点は、住居・学校・公共施設・商業施設などが複合的に整備され、多彩な世代や立場の人々が集うまちづくりに活かされています。「まちというのは、受け継がれ住み継がれることで、生きていくもの。子供からお年寄りまで、さまざまな人が集まり、交流を深めることで、末永く生き続けるまちができるのだと思います」。フリーマーケットや独自イベントも開催され、人々の交流に一役かっています。

■「人と防災未来センター」が伝える震災の記憶
 ところで、「HAT神戸」を語る上では、「人と防災みらいセンター」の存在を忘れることはできません。ここは、阪神・淡路大震災から得た貴重な教訓を世界と未来に向けて発信するとともに、国内外の地震被害の軽減を目指して設立された施設。「HAT神戸」の、いわば原点というべき施設です。
 センター内では、さまざまな防災・減災プロジェクトを推進し、災害対策のエキスパートを育てる一方、阪神・淡路大震災とその復興に関する膨大な記録を保存展示。また、大震災の体験者がボランティアとなり、被災の記憶を人々に伝える“語り部”活動も息長く続けられています。建物外壁に大きく表示された震災発生時刻やマグニチュードが、「私たちは忘れない」という人々の想いを象徴しているようです。
 この「人と防災みらいセンター」の周囲には、WHO神戸センターやJICA(国際協力事業団)国際兵庫センターなど、世界的に活躍する機関のオフィスが集まっています。それは、古くから神戸に受け継がれた国際都市の精神を象徴するもの。「大切なのは、グローバルに考え、行動してきた先人の想いを人々に伝えることです。それが受け継がれてこそ、国際都市・神戸の復興は完成するのではないでしょうか」。青木主査の言葉には、大きな重みがありました。

■「街は必ず復興できる」というメッセージを込めて
 最後に、この春の東日本大震災の被災地復興について、青木主査の想いをうかがいました。
 「『HAT神戸』の整備がスムーズに進んだのは、被災により工場機能の停止は免れなかったものの、津波の被害はなかったこと、工場の移転などの動きや原案となる計画が事前に整えられていたことが挙げられると思います」。その点、今回の東日本大震災は、被災地域も被害の実情もケタ違い。『HAT神戸』の手法がそのまま通用するかどうかは、疑問のあるところでしょう。実際、現地ではまだガレキの撤去さえ思うように進んでいません。
 「でも、『HAT神戸』の経験が、まったく役に立たないとは思いません。何よりも、この街づくりは、『被災地は必ず復興できる』というメッセージを発信しています。状況が厳しいのは確かですが、東日本の各地もきっと復興できると、私は信じています」。
 大震災からよみがえった神戸では、今回の被災地の復旧・復興を応援したいという声が数多く挙がっています。青木主査もまた、その想いを共有する人の一人です。「被災した街の人間だからこそ、分かりあえることがあります。あの時は、私たちが助けられました。今度は、私たちがお返しする番だと思うんですよ」。

 


南側から眺めた、HAT神戸の全景


木道のある歩道は緑の公園のよう


高層住宅の間に設けられた、広い通路

海側からみたHAT神戸

大震災の教訓を次代に伝える「人と防災未来センター」

「神戸赤十字病院」は、災害医療の拠点にもなる

海外でも有名なJICA(国際兵庫センター)

安藤忠雄氏設計の「兵庫県立美術館」
 

HAT神戸/

所在地:神戸市灘区および中央区
URL:http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/urban/hatkobe/toppage.html


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