■幹線道路に沿って広がるモダンな景観
JR灘駅から南へ続く道は、「ミュージアムロード」として親しまれています。スマートな大型ビルやマンションが連なる街並みを歩き続けると、道はやがて、広い歩道のある幅40mの幹線道路(東部新都心東西線)に出会います。
ここは、神戸市の東部新都心「HAT神戸」の中心部。周辺には安藤忠雄氏設計の「兵庫県立美術館」や「人と防災未来センター」など、さまざまな公的施設が連なり、その向こうには、綿密な都市計画に基づいた高層住宅の街並みが続いています。多彩なモダンデザインの建物と青々とした並木道とのコントラストは、この街ならではのものです。
美術館の敷地を南へ横切ると、そこは開放的な海辺のエリア。水際広場やハーバーウォークによって構成された親水空間では、近所の人々がゆったりとした時間を過ごしていました。その整った風景は、ここが15年前の阪神・淡路大震災の被災地だったことを忘れさせるほど。ここは単なる都心の再開発地区ではなく、震災からの復興という大きな課題を成し遂げた、貴重な街でもあるのです。
■統一された景観デザインが印象的な街
「HAT神戸」の主要ゾーンは、阪神高速神戸線の南に広がる約75haの臨海部。ここは大きく4つのエリアに分かれています。街の東西に位置するのが、公的高層住宅および民間マンションからなる住宅地区。一方、中央部には、先に触れた美術館や防災関係施設、JICA、神戸赤十字病院、小・中学校などが置かれ、業務・研究エリアと文化・教育エリアを形作っています。
街を歩いてみてすぐ気がついたのは、統一されたデザインの美しさです。たとえば、東側の灘の浜地区のマンションは、グレーとレンガ調タイルの2色構成が基本。一方、西側の脇の浜地区では、淡いブルーとグレーの2色で、ほとんどの住宅が統一されています。
また、地区内のなぎさ小学校は、赤茶色の瓦屋根とベージュ系の外壁が、スパニッシュ建築を思わせる独特の表情を見せています。教室のベランダ部分も木目調の仕上げとなっており、学校建築とは思えないていねいなデザインには目を見張らされました。
もう一つ印象的だったのが、東西の大通り(東部新都心東西線)にかかる歩道橋の数々。月や波や風をモチーフに、アーチ橋風、斜張橋風、エレベーター付きなど、異なるデザインが施されています。多彩な表情は、大通りの風景に変化をもたらすとともに、街を行き交う人々のランドマークとしても大きな役割を果たしているようでした。
■復興計画のシンボルプロジェクトとして
「HAT神戸」は、どのようにして整備されたのか。神戸市都市計画総局計画部まちのデザイン室に、青木ひろみ主査を訪ねました。
青木主査のお話によれば、「HAT神戸」の原型となた「神戸市東部臨海部土地利用計画策定委員会報告」がまとめられたのは、1993(平成5)年。当時、この地区には神戸製鋼所や川崎製鉄の工場が広がっていましたが、産業構造の変化に伴って、工場の遊休化が進行。そのため、旧来の重工業地帯から、職住接近の新たな産業拠点となる新都心への土地利用転換が検討されています。
「その時点では、都心に近接したウォーターフロント立地を生かし、国際的拠点となる研究・物流・業務などのゾーンを設けることが計画されていました。そこに、あの大地震が襲ってきたのです」。
1995(平成7)年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、神戸を中心とする兵庫県南部にすさまじい被害をもたらしました。マグニチュード7.3の直下型地震による死者は6,400人あまり、負傷者は40,000人以上。さらに、640,000棟近くの建物が全半壊や一部破壊の被害を受け、多くの人々がわが家を失ったのです。
震災直後、神戸市で求められたのは、膨大な被災者の救助と治療、避難場所の確保でした。しかし、これらが一段落すると、本格的な街の復旧・復興が大きな課題として浮上してきます。こうした過程の中、HAT神戸は「神戸市復興計画」のシンボルプロジェクトとして新たに位置づけられることになりました。
「『神戸市震災復興計画ガイドライン』が発表されたのが、震災の年の3月。さらに、6月には神戸市と兵庫県それぞれによる復興計画が策定されました」と青木主査。急速な計画決定が決定された背景には、震災で家を失った多くの人々の存在がありました。「大震災で全半壊の被害を受けた家族は、約46万世帯にのぼりました。多くの人が安心して住める家を、早急に用意しなければなりませんでした」。
「『神戸市震災復興住宅整備緊急3ヶ年計画』では、神戸市内で既存・新築を含めて82,000戸の住宅供給を行うこととされています。その後、被災者に高齢者や低所得者が多い状況を踏まえ、公営住宅供給戸数をさらに6,000戸追加することが決定されました」と青木主査。こうした状況は、「HAT神戸」の計画にも反映されました。
「脇の浜地区と灘の浜地区は、当初は業務関連ゾーンとする予定でしたが、新たな住宅供給の受け皿として計画全体を見直す過程で、住宅ゾーンに位置づけられました。最終的には、公的住宅・民間住宅(賃貸・分譲)を合わせて約6,000戸の住宅が建設されることになったわけです」。
こうして見直された計画に基づき、「HAT神戸」が着工されたのは、大震災翌年の1996(平成8)年6月。翌々年の1998(平成10)年3月には、早くもまちびらきが行われています。関係者が総力を結集したからこそできた、スピーディな復興でした。それはまた、神戸復活を全国に印象づける出来事ともなったのです。
「事前に計画があったとはいえ、これほどスムーズな形で街づくりが進んだ例は、珍しいのではないでしょうか。それだけでも、この復興計画に注がれた関係者のエネルギーがうかがわれます。関係者一人ひとりの胸にある郷土への愛情、神戸への愛着が、この成果をもたらしたのでしょうね」と青木主査。壮大な「HAT神戸」の誕生は被災地の人々を勇気づけ、その余韻は今も街のそこここに残っているようです。
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