朱塗りの大鳥居と楼門に迎えられて
JR稲荷駅の改札から1分も歩かないうちに、朱塗りの大鳥居と、その向こうにそびえる鮮やかな楼門が見えてきました。ここは、名高い伏見稲荷大社。全国3万社以上といわれるお稲荷さんの総本宮にあたります。
ゆったりと続く参道は、平日なので静かなたたずまい。でも、お正月三が日は身動きが取れないほどの人出になります。「2009(平成21)年は、関西最高の約277万人が参拝に訪れました」と、案内をしてくださった同大社宣揚事業部宣揚課の宮掌・西野貴洋さん。京都市の人口の1.5倍に当たると聞けば、「お稲荷さん」に寄せる人々の思いのほども分かります。
堂々とした朱塗りの楼門、舞台のある外拝殿を通り過ぎて、まずは本殿につながる内拝殿へ。大きな一対の狐像が見守る中、二礼二拍手一礼の作法どおりにお参りしました。西野さんに教えられて、本殿の裏へ回ると、そこにも小ぶりのおさい銭箱が。「お稲荷さんにちょっとお願いが」と、油揚げ持参でこちらへ参る人も多いのだそうです。
稲荷山の山すそに広がる境内は、ゆるやかな階段で上へ上へと続いています。その奥宮からさらに進むと、朱塗の鳥居がずっと連なっています。有名な千本鳥居です。「鳥居が“通る”に通ずることから、願いが“通る”“通った”ということで、江戸時代後期から始まったものだといわれます」と西野さん。人が通れる鳥居だけで約5,000基、小さな物も含めれば1万基はあるだろうといいます。延々と続く鳥居の列には、人々の特別な思いがこもっているようでした。
室町時代からの歴史を伝える本殿
「伏見のお稲荷さん」と呼ばれる伏見稲荷大社のご祭神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神、四大神(しのおおかみ)の5柱。御鎮座は平城遷都翌年の711(和銅4)年にさかのぼるといいます。
「古記録によれば、当時の豪族・秦伊呂具(伊呂巨)(はたのいろぐ・いろこ)が矢を射たところ、的にしていた餅が白鳥と化して山の峰に降り立ち、そこに稲が生じたため、「稲生り=イナリ(稲荷・伊奈利)」と名づけて祀ったそうです」と西野さん。そこには、古い山岳信仰や農業神信仰、当時先進的だった渡来系氏族・秦氏との深いつながりがうかがえます。
当初、稲荷山中の3つの社に祀られていた3柱の神々は、皇室や貴族、武家の厚い崇敬を集め、942(天慶5)年には、正一位を授けられます。しかし、応仁の戦乱で山上山下の社殿は炎上。「その後、『五社相殿』とよばれる、今の本殿が築かれたわけです」。
現存する本殿(重文)および奥宮は、その頃の歴史を伝える貴重な建物。桧皮葺き・流造と呼ばれるたたずまいは由緒ある神社にもかかわらず、どこか優しい印象があります。
また、2層桧皮葺きの楼門は16世紀のもの。豊臣秀吉が、母大政所の病気回復を祈って寄進したものです。400年以上前の人々も、この楼門をくぐったのかと思うと、不思議な感慨がありました。 一方、伏見稲荷大社の古い信仰を伝えるのが、千本鳥居から稲荷山へと続く「お山めぐり」の道です。ここは、稲荷大神が降り立った峰として神聖視されてきた場所。山内の要所は、「一ノ峰」「二ノ峰」「三ノ峰」などと呼ばれ、合計1万基もの塚があるのだとか。「今も、ご鎮座にゆかりある2月の初午には、多くの方々がお山をめぐられますよ」。西野さんの言葉に、大昔から脈々と続く稲荷信仰の姿を実感しました。
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