歳を迎えたネオ・ルネッサンス様式の駅舎
駅前広場から眺めると、海の向こうには下関の街並みが広がっています。関門海峡を間近にのぞんで、風情ある建築が点在する「門司港レトロ地区」。その一角に、JR門司港駅は穏やかにたたずんでいました。
駅舎は両側に小さな塔を持つ銅板葺き、下見板張り、左右対称の2階建て。ネオ・ルネッサンス様式と呼ばれるスタイルだそうです。緑青色の屋根や窓まわりの細かな仕上げ、2階バルコニーの装飾から伝わるのは、当時の人々の丹念な仕事ぶり。95年前とほぼ変わらない姿には、何ともいえない味わいがあります。
「室合待」という、古い表示板に一瞬戸惑いました。「待合室」の昔の書き方なのですね。「駅長室」や「手荷物取扱所」などの表示も、全部同じ。あわただしい現在の中で、ここにはまだ大正時代のゆったりした時間が息づいているかのようでした。
さまざまな逸話を生んだ九州の玄関口
詳しい話をうかがうため、第56代の大谷資駅長を訪ねました。通された駅長室は、高い天井と高い窓、落ち着いた木の調度が印象的な空間。昔は、この中央にシャンデリアが下がっていたそうです。
駅長によれば、現在の門司港駅は1914(大正3)年竣工の2代目。1891(明治24)年開業の初代駅から200m西側に建てられました。当時の駅名は「門司駅」。「門司港駅」となったのは、1942(昭和17)年の関門トンネル開通計画以後です。
「そのころの門司は、九州の鉄道の起点でもあり、関門連絡船の発着場であり、さらに日本から中国大陸への出発点でもありました。ビジネス客、一般客、さらには筑豊の石炭などの物資をスムーズに運ぶために、港と直結する大型駅が必要となったようです」。
戦後も、大陸からの引揚者と出迎えの家族、さらに大阪・東京方面への旅客や貨物で門司港駅は繁栄を続けました。門司港に陸揚げされたバナナの叩き売りが名物になったのもその時代だそうです。
「1964(昭和39)年までは関門連絡船が発着。接岸のたびに構内は乗換客で満員でした」と大谷駅長。その連絡口の跡も、駅の一角に残されています。最盛期には500人の駅員さんがいたといいますから、そのにぎわいが分かります(現在は42人)。
出会いの中では、さまざまな逸話が生まれました。誇りの鏡にまつわる話もその一つ。終戦直後のある日、大混雑する駅の構内で1人の女性が産気づきました。駅員の1人が機転を利かせて自宅に運び、女性は無事に男の子を出産。門司駅にちなみ「左門司」と命名されました。体調が戻った女性はお礼を繰り返しながら、赤ちゃんと一緒に実家へ戻ったそうです。
「その左門司さんの成人後、再びご両親が駅を訪ねてこられ、お礼にと贈られたのが、駅務室にある誇りの鏡です。今でも駅員は、この鏡の前で身だしなみを整えてから、駅に出ることになっています」。
誰もが生きるだけで必死だった時代、お客さんの生命を第一に考えた駅員さんが、ここにはいたのですね。門司港駅がレトロ地区の中心として、人々に愛され続けてきた理由が、少し分かった気がしました。
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