ひっそりと佇む孤高の名刹
厳しい夏の日差しの中に、一陣の涼風が吹き抜けるような、落ち着きのある瀟洒なたたずまい、〈孤篷庵〉の門は、何かしらホッとするような優しさとともに私たちを迎えいれてくれました。副住職でいらっしゃる小堀亮敬師の案内で、いよいよ〈孤篷庵〉の室内へと導かれます。
本来はこちらが正門となる唐門に続くのが方丈です。この門は格式の高い唐破風になっており、屋根は桧皮とこけらを交互に葺いて、鎧の直垂のように見えることから、鎧葺きと呼ばれているそうです。
方丈は、狩野探幽の息子である狩野探信の筆になるという襖絵をめぐらし、ひっそりと落ち着いた雰囲気です。
小堀遠州の夢を結ぶ〈孤篷庵〉
この〈孤篷庵〉は、建物自体を船に見立てて、随所に様々な意向がほどこされていますが、方丈の入り口にかかる小堀遠州自筆の〈孤篷庵〉という文字の篷とは舟の上を覆う苫(とま)のことで孤篷とは小さい舟という意味だそうです。
〈孤篷庵〉を知るには、まず小堀遠州その人を知らなければならないでしょう。亮敬師にお尋ねしてみました。
「出身は近江小室の藩主。千利休らの流れを汲む江戸初期の大名茶人。徳川将軍家の茶道指南役となる。建築、造園にも卓越した才能を発揮し、駿府城築城の功により、家康より遠江守を賜り、以来「遠州」と呼ばれるようになる。自ら図面を引き〈孤篷庵〉を建立、最初は小さな庵であったが、後に現在地に移築。遠州64歳のとき。
火災により一度消失するが、遠州を慕う大名茶人松平冶郷(不味公)により、遠州の設計図をもとに復元。その古図はいまも残されている。建立当時遠州は江戸詰めであったため、連日のように手紙で細かい指示を与えたという。晩年は伏見奉行の職にあり、ここで茶会を開いたこともあったが、わずか4年後に68歳で世を去る」。淡々と、でもとても明快に遠州の人となりを説明してくださる亮敬師の声には、この庵を守り続けている慈しみにも似た思いが感じられます。
江戸に出て以来一度も近江に帰ることなく世を去った遠州の、近江に対する郷愁とでもいったものが、この庵を一つの舟とし、波間に漂う姿に自分をなぞらえたのかも知れません。
現代建築にも通じる画期的な意匠の数々
さて、ふたたび室内を見せていただきます。方丈に続くのが〈忘筌(ぼうせん)〉と名の付けられた茶室です。まず目につくのが庭に面する板縁の先にしつらえられた障子です。表紙写真で見ていただければよく解りますが、上部は障子、下部が開け放たれたままという不思議な形をしています。この下部の開放部分は茶室へのにじり口であるとともに絶妙な明かりの演出をすることになります。
この部屋は西向きですので、西日が当たるのですが、直接日光が入り込むのを遮断すると同時に、板縁に当たった光が、天井に反射するようになっています。そしてその天井は胡粉を擦り込んだ砂摺り天井で、当たった光が柔らかく拡散され室内に行きわたります。さらに、据えられた手水鉢の水面も反射によって天井でゆらゆらと揺れる様が観られます。そうです、この〈忘筌〉が舟そのもの。波間に揺られながらお茶を楽しむ工夫とは、なんとすばらしいアイデアでしょう。
また、長押は通常よりも低い位置にあり、茶室としての天井を低くみせるための工夫です。この吹き抜け障子のアイデアは、現代の建築家にも大きな影響を与え、いくつかの建築作品で同じような意匠が見られるそうです。繊細にして大胆、そして斬新。その見事さには、ただため息をついて見とれるばかりでした。
さらに書院へと続きます。南に向いたこの部屋の前面には、池泉回遊式の庭園が広がっています。これは近江八景を模したものだとか。遠州の故国に対する思い入れがこういうところにも強く感じられます。室内は、遠州好みの二重格子の障子が張られ、その腰板に狩野伊川の四季農耕図が描かれています。また入り口には〈直入軒(じきにゅうけん)〉という額がかかっていますが、これは若くして夭折した遠州の長男の法名だということです。
小堀遠州という稀代の茶人・建築家・造園師が自分の思いを込めて作り上げた、最高の芸術。きっと多くの茶人を招いて心ゆくまでお茶を楽しんだことでしょう。〈忘筌〉の天井にゆらめく光をながめながら、〈直入軒〉の庭に遠く琵琶湖の湖水をしのびながら、遠州はこの〈孤篷庵〉をこよなく愛していたに違いありません。
もっと眺めていたい気持ちを振り切って〈孤篷庵〉を辞しました。門をくぐって路地に出ると、つい先ほどのことなのに、あの清冽といってもいいほど気品に満ちた部屋々々の印象が、まるで夢のように思えてきます。
ふと気がつけば、相変わらず暑い京都の昼下がりでした。
最後になりましたが、ご案内と、懇切なご説明を戴いた小堀亮敬副住職に心からお礼を述べさせていただきます。本当にありがとうございました。
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