園児のために様々な趣向が凝らされた名建築
まず堂々とした外観に圧倒されました。重厚な正門は塀重門といって、武家の門に用いられた様式です。中央部にある、2階建てと見まごう高い大入母屋は、遊戯室の屋根。鬼瓦には「愛」の文字が刻印されています。 門を入ると、敷石が配された涼しげな庭が私たちを迎えてくれます。見た目の素晴らしさもさることながら、内部の構造に関する詳しい説明をうけるにつけ、この建物がほんとうによく練られたものなんだと実感できます。 最も大きな空間である遊戯室は、2階建てに匹敵するほどの高さで開放感いっぱい。当時の仕様書には「光線ハ最留意セシ所」とあり、全体的にガラス戸、ガラス窓が多用されています。また遊戯室の床は二重床になっており、上下の板の間におが屑が詰め込まれています。これによって振動による音を抑え、さらに室内を暖かく保つという防寒の役割も果たしているのです。 天井は、角材を縦横に組み合わせて裏板を張った桃山様式の格(ごう)天井で、格式の高さが感じられます。木材や壁などは趣深い色を醸し出し、刻まれた歴史を感じさせました。以前、格天井の裏板を一部張り替えたとき、周りと色の違いをなくすために、わざわざ古い板の汚れをつけてからはめたことがあったそうです。 これだけ古い建築で、地震は大丈夫なのかとたずねたところ、「もともと耐震に関しては考慮されていたようです。また、平成元(1989)年に遊戯室の大がかりな構造補強を行ないました。阪神・淡路大震災では、これだけ多くの窓ガラスが1枚も割れず、ほかの場所も最低限の被害にとどまりましたよ」という答え。小屋組の梁の接続に「繋金物」が使われ、耐震的配慮がなされていたことが仕様書にもあるそうです。 また、グラウンドと廊下、部屋の高さがフラットであることに気付きます。園児の安全のため、早くもバリアフリーの概念が取り入れられていたと聞き、感銘を受けました。 同園舎には、幼稚園には珍しく和室があります。お茶遊びを通して思いやりと感謝の心を育んだり、端午や桃の節句に人形を飾ったりして、日本文化を学ぶ場として利用されています。
取り壊しを引き延ばした園長の執念
同園舎は、第2次世界大戦で取り壊しの危機に直面しました。昭和20(1945)年6月、軍から建物疎開命令という取り壊しの指令が出たのです。当時園長であった故・中村道子さんは「なるべく遅らせてほしい」と粘り、結局園舎はそのまま終戦まで持ちこたえました。激しい空襲が続くなか、園舎に泊り込んで取り壊しを引き延ばしたそうです。地域が育てた明治以来の幼児教育の伝統と文化を何としても守らねばならないという使命感と執念が園舎を無事に生き永らえさせたのでしょう。 脈々と積み上げられてきた先人たちの尽力によって、今の愛珠幼稚園の姿があるのだとつくづく思いました。「主人花を愛すること、珠を愛するが如し」という園名の由来にあるように、この幼稚園がこれからも末永く、昔と変わらない姿で幼子たちを見守り、温かく育ててほしいと感じました。※大阪市有形文化財の指定はその後、国の重文指定に伴ない解除されています。
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