被爆した一人の神父の祈りから
正門を入ると、目の前がその聖堂でした。正面の壁面には巨大な十字架。その隣には高い鐘楼が、青空に美しく映えています。
「鐘楼の高さは十字架を除いて45m。塔内にはドイツ製の4つの鐘が納められています」と、解説の藤田博美さん。この聖堂のガイドのボランティアのお一人です。
聖堂建設のきっかけは、戦前からここで布教していたフーゴ・ラサール神父の発案だったそうです。日本人の心を知るために自ら参禅し、後には「愛宮真備」という名で日本国籍に帰化したイエズス会士。そして、自らも原爆に遭遇した被爆者でした。
「神父が願ったのは、原爆犠牲者の慰霊追悼と世界平和を祈る聖堂の建設でした。自らも被爆者だったからこそ、その思いは世界中に届いたのでしょう」。
当時の法王ピオ12世から、聖堂建設に対する特別の支援と祝福をいただいたラサール神父は、昭和22(1947)年から聖堂建設の準備を始めます。土地の手当て。資金集め。建設会社の選定。そして、設計。
「設計については紆余曲折があったのですが、村野藤吾先生が担当することになりました。条件は、「健全なモダンスタイル」「宗教的」「記念的」「日本的」であること。先生はこの仕事を、設計料なしで引き受けられたと聞いています」。
内外の人々の献身に支えられて
昭和25(1950)年8月6日、聖堂の建設がスタートします。土地の確保には広島市が協力し、募金活動や工事には大勢の市民が献身。この建物のほとんどが現場での手造りです。それだけではありません。
「国内では、高松宮殿下や当時の吉田茂首相、池田勇人蔵相らが中心となって、後援会が結成され、大々的な募金が始まりました。アメリカやドイツなどからも、浄財や資材寄付の申し出があったそうです」。鐘楼の中の4つの鐘もその一つ。ドイツからの寄贈でした。
「ドイツからは他にも、聖堂正面の3つの門やパイプオルガン、説教壇、ステンドグラスなど多数が寄せられました」。当時の同国は、戦争で大きな被害を受けていたはず。にもかかわらず贈られてきた品々には、人々の切実な思いが込められていたはずです。
「それこそ、この聖堂に伝えられた一番のメッセージであり精神だと思います」。
そのせいでしょう。昭和29(1954)年の献堂以後、ここにはマザー・テレサやベルギー国王などが来訪。中でも、先のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が残した平和アピールは有名です。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です…ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を担うことです」。
藤田さんも言います。「聖堂の扉は、あらゆる宗教・宗派のあらゆる魂に開かれているのです」。
|