2007けんざい
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「夢がかなう法則」

宝塚歌劇団・聖徳大学音楽講師
三ツ矢 直生 氏 (元宝塚歌劇団男役スター) 

一緒に夢を応援してくれた家族
 「夢がかなう法則」というのは、以前私が著した本のタイトルです。今日はその本に基づいてお話させていただきます。
 私は末っ子の甘えん坊で、大好きな姉と一緒に大好きな宝塚を観劇しながら、自分が舞台に立って歌ったり踊ったりしている姿を夢見ていました。
 まだ14歳くらいだったでしょうか、本に書いてあった「自分が信じていれば夢はかなう」という言葉に強く心を動かされました。そのときから私は「夢とは信じればかなうもの」と思い込むようになりました。
 思えば人生、思い込みで生きてきたような私です。もちろんかなわない夢はたくさんありますが、それは自分の信じ方が足りなかったからだ、と思っています。
 私が宝塚に入りたいと言ったとき、父は大反対でした。しかし母は「あなたが本気でやりたいのならどこまでもできる限り応援する」と言ってくれました。

自己を肯定し、他者からのアドバイスを受け入れる
 結論から言ってしまうと、一人では何もできませんでした。親に限らず、本気で何かを成し遂げたいとき、応援してくれる人は必ずいると思います。やりたいと思ったことはとりあえず口に出してみることです。そうすることでアドバイスやサポートがもらえるし、相手の言うことを受け入れられる気がします。
 現在、教える側として宝塚音楽学校でいろいろな生徒と関わっていますが、スターになる子の多くは受け入れ方が上手です。何かを注意しても、「批判されてしまった」と受け取る子が最近は多いんです。
 だから私は「そもそもあなたは素晴らしいんだよ」とまず自己肯定力を上げてもらうように努めています。そこに「あなたが変えていったほうがいいこと」を伝える。「これは批判ではなくあなたへのプレゼントなのだ」と理解してもらうことによって、彼女らの能力を引き出し、前に進んでもらうようにしています。
 私が幼い頃に夢に出会えたのは幸せなことでした。このとき学んだのは、「やるかやらないか。やるならばアドバイスしてくださる方の言うことを全てキャッチする」ということです。

自分との戦い〜何に向かっていたか
 宝塚音楽学校は1,000人に40人しか入れない狭き門で、容姿、歌、踊り、全ての力が備わっていないといけません。父からは「宝塚なんか入れるわけがない。無理に決まっている」と一笑に付された私でしたが、かえって負けん気が生まれました。
 中学校の帰りに週3回、東京から片道2時間かけて茅ヶ崎まで歌を習いに行き、週3回バレエに通いました。宝塚受験を想定し、面接や質疑応答のレッスンもありました。
 宝塚の入試は3次試験まであります。当時は技能が最も重視され、まず歌とバレエが1・2次で審査されました。今は1次試験が面接で、1,000人の受験生が容姿で半分落とされます。顔の美醜というより、頭身のバランスがかなり重視される傾向にあります。
 受験のためのレッスンは過酷でした。稽古を終え夜遅く帰宅して就寝、朝4時に起きて学校の勉強をするといった生活で、日々くたくた。しかし自分の好きなことをやりたくて無我夢中でした。そんな中、母はお菓子やお弁当を持って送り迎えに来てくれたり、姉は宿題を手伝ってくれたりと、暖かく応援してくれました。
 ついに、夢見ていた宝塚音楽学校に入学と相なりました。同期には黒木瞳、真矢ミキ、涼風真世らがいます。同じ釜の飯で育ち、同じ目標に向かった仲間。今でも仲良しで、かけがえのない宝物です。

厳しい規則を叩き込まれることで身に付いた実行力
 あくまでも私の時代の話ですが、宝塚は軍隊のような所でした。上級生が「カラスは白い」と言えばそれが正しいのです。今思えば、それも必要な厳しさだったのでしょう。
 上級生の言うことは絶対である、と叩き込まれることによって、文句を言う前にとにかくやってみるという実行力が身に染み込み、その先のいろいろな試練にも耐えられたと思います。あこがれの宝塚に入れたのだから、噂に聞いていた厳しさなどへっちゃらだと思っていました。でもやっぱりつらかったですね、想像よりもずっと。15歳で親元を離れての生活です。ホームシックで泣くこともしょっちゅうでした。
 学校には何千という規則があります。一糸乱れぬラインダンスを踊るために求められる「統一の美」につながるものです。例えば道を歩いているときは、制服両端の縫い目(側章)に中指が乗っていること。髪の毛は一本も落としてはいけない。だから頭はピンでがっちり留めていました。お風呂場ではカランの向きや桶の向きも決まっていました。
 学校は阪急電鉄株式会社のずっと下にいるからと、通る列車に一両ずつ「お疲れ様でした」とご挨拶する規則もありました。はた目には異様に見えたことでしょう。もちろん電車は最後尾に乗るのが規則でした。
 下級生(予科生)は、上級生(本科生)が授業を始める前に掃除を済ませなければなりません。朝5時から2時間半くらいかけて行うのですが、さすがに常軌を逸していますよね。私は幸か不幸か、首席での合格だったため、上級生からのお叱りを一手に受ける役目を負っていました。同期が失敗すると、上級生全員に私がお詫びに行かなければなりませんでした。
 花を生けるのにも、予科生はまだつぼみだから、咲いた花を飾ってはいけないという規則があります。しかし夏場になると、午後には花が開いてしまうため、2時限おきに花を替えるのです。花が開いていると、上級生に「1階トイレのお花が開いてるんだけど、どういうこと?」などとお叱りを受けていました。

鬼の指導を受け、初舞台のラインダンスを迎える
 次に本科生になりますが、本科時代はあっという間に終わり、めでたく初舞台となりました。初舞台は全員揃ってのラインダンス。当時は、河内出身の喜多弘という恐ろしい先生が指導者でした。東京育ちの私は言葉がさっぱり分からず、激しい怒号も意味不明でしたが、喜多先生の指導は大好きでした。
 厳しさは、それまで味わったことのないほどすさまじいものでした。物が飛んできたり(本当に当たってアザができます)、髪の毛を引っ張られたりと、壮絶な稽古なのですが、みんな先生が大好きなので付いていくのです。厳しいけれど愛があったからなのでしょう。必ず私たちを完成まで導いてくれる方でした。
 叱られてばかりの日々ですが、先生に褒められたい、よい作品をつくりたいという一心でみんな頑張っていました。最初は全然足が上がらなかった人も、最終的には全員足が頭に付くまで上がり、満面の笑みで楽々5分間踊れるようになります。
 初舞台の本番では、血と汗と涙の稽古を乗り越えてきたことが分かるので、上級生たちもかつての自分を思い出してみんな涙しながら拍手喝采を送ってくれました。あれがあったから、人生でどんなにつらいことが起こっても乗り越えられる気がしています。

声はメンタルと直結、声でコミュニケーションを
 この世界は、力があるからといって必ずしも上に出ていけるところではありません。成績がよくても下に埋もれていたり、下級生に追い越されてしまったりして、みんな砂をかむような思いをしています。
 「人生で10個のうち2個良いことがあれば御の字だ」とは萩本欽一さんの言葉です。2個の良いことのために8個の嫌なこと、しんどいことをやるんだと。これは私も自分の生徒に話しています。
 声は一番メンタルとつながっています。自分の持っているものを声で伝え、聞いてくれる人がニコニコ嬉しそうにしてくれたら、それは最高の喜びに感じられます。背筋を伸ばして大きな声で「おはようございます!」と挨拶してみてください。お腹から声を出すと体の中が動いてきます。そうすると自己肯定力も湧いてくるのです。
 声は大事なコミュニケーション手段です。今若い方々はみんなスマホでやり取りしていて、了解していないのに「了解!」で送信してしまう。了解していないことがあるのならケンカしてでも納得してからのほうが、よっぽど人間関係が良くなるのに、と思います。まず心と体を使って声で伝えていくことから始めましょうと、いつも生徒に話しています。

憧れのジェローデル役を演じ、有終の美を飾る
 宝塚歌劇団での10年間の生活が終わり、全てが変わることになります。私はどうしても演じたかった『ベルサイユのばら』のジェローデル役を最後に退団しました。この役を得るために、大好きなアイスクリーム断ちをしたり、腹筋を60回増やしたりなどして、自分史上最高の体に仕上げるべく努力しました。
 「なぜ宝塚を退団したのか」と聞かれます。私はそれ以前にも一度退団を考えたことがありました。もっと自分を認めてくれる世界へ行きたかったからです。そのときはお客様や尊敬する先輩方から「ここでできることはまだまだあるよ。今はやめるときじゃない」と言われて思いとどまりました。
 でもジェローデルをやったとき、「もうお腹いっぱい食べた。ああ幸せ」と思えたんです。ここで初めて私は、背中からふっと風に吹かれたように「あ、今だな」と感じました。嫌で退団するのではなく、本当に自然に「次の階段を登ろう」と思うことができました。

何にも属していないという恐怖、自分が行方不明に
 しかしいざ退団してみると、自分がどう過ごしたらいいのか全く分からなくなってしまいました。私は中学を出て何も分からないまま宝塚に入り、馬車馬のように稽古、稽古の毎日を送ってきました。だから退団したら、髪も伸ばしたいし、ジムにも通いたいし……といろいろ思い描き、開放感にわくわくしていたのですが、実際は、心にぽっかり穴が開いて病人のような状態になってしまいました。
 宝塚時代は役者として、何をするにも明確な目的を持って動くことができていたのに、突然どこにも所属していない状態になった私は、生まれて初めての経験にものすごい恐怖を覚えました。「一体私は何なのだろう?」と。 特に何かを決めて退団したわけではなかった私。悩んだあげく、何か仕事に就こうと思いました。そこで新聞折り込みなどを見て探してはみるのですが、立ちはだかる「高卒以上」という壁。「ああ、中卒ってまともに職にも就けないんだ」という現実を知り、愕然としてしまいました。仕事もせずに、家では情けなくも粗大ゴミ状態。失意の日々でした。

悔しさをバネに猛勉強、東京藝大に入学
 私にはやっぱり、歌と踊りしかないのでした。NHKのオーディションを受け、奇跡的にテレビで1年間のレギュラーを獲得しました。第2の人生の幕開けです。そして次に出演したミュージカルが大きな転機になります。きっかけは二つありました。一つは東京藝術大学教授の平野忠彦先生との出会い。もう一つは私のチャレンジ精神に火を付けた、ある人からの屈辱の言葉。
 屈辱の言葉を私に浴びせたのは、音大出身の女性声楽家でした。「宝塚なんか何もできないでしょ。譜面も読めないんでしょ」となじられ、心底悔しい思いをしました。その悔しさから私は、彼女の出た音大よりもレベルの高い東京藝大の音楽学部に入って平野先生に師事しようと決めたのでした。
 人の出会いは不思議なもので、今では彼女が私の恩師だと思えるようになりました。あれほど私に嫌な思いをさせた人でも、その人が今日の私をつくったと考えると、感謝しかありません。
 さて東京藝大を受けようと思ったとき、大検というものを受けないと大学を受験できないことを初めて知ります。子どもの頃から机に向かうのが嫌いだった私は、勉強にめげそうになるたびに「はっ!そうだ私は悔しかったから勉強しているんだ」と自分を奮い立たせていました。
 何とか大検を取り、その半年後に控えるセンター試験を受けるためにまた猛勉強です。過去問は20年分解きました。予備校で「センター試験対策を受けたいのですが」と言って「息子さんのですか?」と返されたときのことは忘れられません。
 藝大の試験は実技と筆記(音の書き取りや楽典)。得意の歌は「ようこそ私のディナーショーへ」とばかりに気持ちよく歌いましたが、ピアノや書き取りは苦手で、心臓がつぶれるかと思うほど緊張しました。合格発表で自分の受験番号を見たとき、大粒の涙がこぼれてきたのを覚えています。

夢を探し続ける、人を育てる 
 入学式のとき、「この中で将来自分の技能を仕事にできるのは0.03%」と言われました。これは紛れもない真実で、どんな優秀な人でも、命をかけて何年も勉強してきても、何の役にも立たないことのほうが多いのです。芸術はこんなに人の心を潤し豊かにするものなのに、それが置き去りにされるのは悲しいものです。
 しかし大事なのは4年かけて勉強してきたということではないでしょうか。音声学、音響学、心理学……培ったことを別の分野の企業などで役立て、活躍している人もいます。いずれの人も、現実との折り合いがうまく取れていればいいのになと思います。
 せっかく素晴らしい場所で学ばせていただいたので、今は私も、可能なところならどこにでも演奏活動に行くというスタンスでいます。同時に、人に教えたり、思いを伝えたり、歌う喜びを感じてもらうための活動も行っています。「会社を辞めたい、病気がつらい、生きていたくない、そんな暗い気持を抱えた方々に『あなたの歌を聞いて生きる希望が生まれました』と言ってもらうために歌うんだよ」、若い方々にはそんなふうに教えることもあります。
 これからも私自身、大きな夢をどんどんかなえていきたいと思いますし、皆さまも夢をお持ちなら、ぜひかなえていっていただければ嬉しく思います。
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