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2024年8月5日「失敗から伝えられること」(2024年通常総会記念特別講演)株式会社森本組 元代表取締役社長
森本 善英 氏一度は他社へ入社するも、先代の要請で家業へ
本日は、いかなる経緯で森本組が民事再生となり、私がそこから何を学んだのかをお話しいたします。少しでも皆さまのお役に立てばと思っております。
民事再生にあたり、皆様にご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
私は1979(昭和54)年、大学を出て電力会社に入社しました。家業の森本組はゼネコンで、そうした建設系企業では、跡継ぎがいわゆる「修行」として同業者に入社するパターンが多いのですが、森本家は2代目以降女系となり婿養子がとられました。3代目社長となった私の父も婿養子で森本家に迎えられています。
私は長男でしたが、父は土木を専門とする人間を社長にしたいと考えており、文系の私に社長になれとは言いませんでした。そんなわけで家業は気にせず他社に就職しました。しかし父に帰ってきてくれと言われ、結局その会社を辞めて森本組に入ることになるのです。私もいろいろ悩みましたが、当時の森本組の番頭さんが毎週のように私の職場に足を運んで説得しにくるほど強く望まれたため、1984(昭和59)年、とうとう家業に入る決意をしました。オーナー企業のメリットとデメリット
森本組は粉飾決算を行っていました。なぜそれが起こり、民事再生に至ってしまったのかを話す前に、同社について述べようと思います。同社は1890(明治23)年に奈良で創業したオーナー企業で、私は4代目社長でした。オーナー企業にはメリット・デメリット両方がありますが、まずメリットは理念や社風が明確で安定し、まとまりがあることです。
デメリットはワンマンになり、取り巻きの中でオーナーが裸の王様になってしまうこと、思い切った改革ができなくなることです。そして社員の中に「ヒラメ」と「土蜘蛛」が生まれます。ヒラメは海底の砂に潜り込み、目だけ出してじっと上を見、何もせず社長の様子をうかがっているが、社長がいなくなると動き出して獲物を襲います。土蜘蛛は反対に、普段声を上げて悪さをしているが、敵が来るとスッと穴の中に隠れる。そういう社員がどうしても生まれます。オーナー企業に限らないとはいえ、より生まれがちだと私自身は実感しました。入社直後の辞令は広島支店のダム工事現場
社長から後継者につなぐ際、気を付けるべき大切なことが3点あります。
一つは、後継者候補に会社の最前線を経験、理解してもらうこと。私の場合、森本組に入社して最初の辞令が広島支店で、着任1カ月後には山口県のダム工事現場に配属されました(図1)。今振り返るとこの辞令は大変よかったと思います。事業の最前線で何をしているのかを、若く早いうちに学べたからです。
ダムがどんなふうにつくられているのかを一通り理解することができ、土木の専門用語も身に付けられました。こうして私は、最初にダムとトンネル工事の現場、次に営業で経験を積んでいくことになります。
二つ目が、常に謙虚であれと教えること。先代父が私に伝えてくれたことで最も素晴らしかった教えでした。「いばるな、いばるな、とにかく謙虚でいよ」と常に言われました。謙虚でいたおかげで、社内外問わずいろいろな方面にネットワークができました。
三つ目、外部の経済活動より社業を優先させること。ロータリークラブやYPOのような団体への加入がもてはやされがちですが、父は反対派でした。「絶対に行くな。足元を見なさい」と言い、まず自分の仕事を第一に優先すべきだという信念を持っていました。ただしこれは人それぞれの考え方があって、この教えが絶対だとは思っていません。社外の経済活動で人脈を築いて成功している人も多数知っています。後継者が意識すべき視点とは?
後継者として心得ておくべきことも何点かあります。まず、会社の伝統を守りながら新しいものを取り入れることです。森本組は官公庁の土木工事を中心に受注する会社でした。これはこれで安定していましたが、好景気時に単価が追いつかず赤字になるというデメリットがあります。だから官公庁土木工事に依存していると、好景気時に利益が出ません。反対に民間の建築工事は好景時に利益が出るため、民間の案件を開拓して好景気時も不景気時もバランスよく利益を確保できるような経営が必要だと考えました。
「新しいもの」とはすなわち新規事業への着手です。今は当たり前になっている環境対策を、約20年前に技術提案しました。環境に特化した部門を創設し、ずっと継続して取り組みました。2003(平成15)年に民事再生となり、私が会社を去ってからも彼らは一生懸命実用化に専心、10年ほどを経てからやっと花開きました。
それが「オイルバクターシステム」という、食品工場の排水処理をエコで浄化するシステムです。広島の会社とタッグを組んで広めていきました。今やビッグサイトやインテックスに出展するようなシステムに成長しており、森本組の環境部門の柱になっています。
ここまでに20年かかりました。あるレベルまで実績ができると、そこから急速に伸びます。この低空飛行状態をどれだけ我慢して粘り強くやっていくかが肝であり、森本組ではまさに環境事業がそうでした。
次に心得として大事なのは、先代・前任者と違う部分を見せることです。3代目の父は、2代目と違うことをしたいと考え、海外での事業に乗り出しました。私の場合は、官公庁土木工事主体のスタイルから民間工事も手掛けられるよう新規開拓を行うとともに、先述の通り環境ビジネスにも取り組みました。
民間企業の開拓は、民間鉄道会社(民鉄)との取引を広げることで進めていきました。東京支店長を務めていたときは、とりわけ首都圏の主要な民鉄の案件を多く手掛けました。大阪のゼネコンが首都圏の私鉄の工事を?と驚かれますが、ご縁などもあって多くのお仕事をさせていただきました。複々線化工事や高架化工事など、土木の仕事が多かったですね。
建築分野でも開拓を進めます。実は日本建築材料協会でもお付き合いがあった淀川製鋼所様は、唯一先代の時代から取引があった民間優良企業です。私は営業本部長時代にそこからさらに建築分野を広げていったのでした。
また社員との接点を持つことも大事です。私は定期的に現場や支店を回り、社員に声をかけました。現場時代もできるだけ職員の生の声を聞くようにしていたのですが、それが今度お客さま(その現場の発注者)を訪問した際に役に立つのです。現場の話題でコミュニケーションが生まれて営業にもプラスになります。
さらに、将来への夢や希望、目標を社員に示すことも重要な心得です。愛社心や働くモチベーションを強化するために、会社の将来や夢を語り、ありたい姿を常に社員に示します。そのための場づくりとして、部長、課長、若手リーダーで階層別に、将来について活発に語り合うためのサークルを設けました。一方通行の伝達で押し付けたり命令したりするのでなく、フラットであることが大事です。「決断力」「責任を取る」リーダーシップを
経営層、幹部社員にとって重要なのは、「決断力」と「責任を取る」こと、結局この二つに集約されると思っています。自分が社長としてやってきた経験から一番大事なポイントだと思いました。これがないと社員はついてきません。判断を引き延ばすのはNGです。部下やチームのやる気が減退します。判断・決断が早い上司は、部下から見て「この人は責任逃れをしない、責任を取ってくれる」という印象を与えるので、信頼されて部下・チームの士気も高まります。この2点の重要性、私は身をもって感じます。
特に幹部社員や管理職は、社の方針の理解と伝達をいかにうまく行うかがポイント。幹部は自社方針に対し、どうしてもフィルターがかかってしまうからです。私も東京支店長時代にいろいろ経験しました。そこで次に、東京支店長のときに通常業務以外に社内外に行っていたこと、感じたことを述べてみます。楽しく、やる気に満ちていた東京支店長時代
私が東京支店長に就任したのは1990(平成2)年のバブル全盛期でした。当時の東京には部下が約200人いました。200人は管理可能な人数の限界で、顔、名前、ある程度のキャリア、性格などをギリギリ把握できるレベルです。よって社内管理については、チーム編成やコミュニケーション、人事考課、社内会議など非常に配慮して進めていました。
特に人事考課は慎重に真剣に。昔は人事考課表を紙で付けており、それを持って誰もいない静かな場所へ行って考えていました。社員の生活や人生に関わる問題なので、それくらい真面目な姿勢で臨まなければならないと思います。
その頃の東京支店は、大阪に本社を置く企業にありがちな、格下の位置付けでした。だから東京支店に配属された社員たちはまるで島流しにあったかのような士気の低さで、私はそれを問題視していました。しかしありがたいことに、私が社長の息子だからなのか、社員は私の就任を期待感で迎えてくれたのです。そこで私も「社長の息子が東京に来たのだから、絶対に東京支店を盛り上げて大阪と並ぶ2大拠点にするぞ」という意気込みを示すと、やはり彼らはついてきてくれました。
東京の市場は大阪の6倍から10倍もあるので、頑張れば結果が出るはず。それを一生懸命伝え、「頑張ろう、大阪に並べ」と鼓舞すると、みるみる業績が上がりました。だから私は東京支店長時代が一番楽しかったですね。新規顧客開拓、一番はギブアンドテイク
ゼネコンは受注産業なので、新たなお客さまを開拓するには工夫が必要でした。私は東京支店長の次に建築営業本部長に就いたのですが、そのときに取った戦略がギブアンドテイクです。要は材料を購入している会社とwin-winになろうと、「機会があれば弊社に工事をお願いします」というアプローチで顧客拡大を図っていきました。例えば大手民鉄の施設や関係会社を利用したり、鉄、生コン、火薬などを1社のメーカーに絞ったりなどして、ご縁を大切にすることで、工事受注につなげる努力をしました。
他にも、地元の法人会とのお付き合い、生損保会社、タクシー会社、社用ガソリンを購入している会社などなど、さまざまな利用先とギブアンドテイクの関係を築いたものです。初めての海外進出が招いた大きな赤字
では本題の粉飾決算の経緯について話しましょう。先ほど、「先代・前任者と違う部分を見せる」ために父は海外進出したと言いましたが、実はこれが粉飾決算につながることになったのです。1972(昭和47)年、海外事業として初めて中近東の工事を受注しました。私はまだ高校生でしたが、父が大変喜んでいたことを覚えています。本当にうれしかったと思います。2代目ができなかったことを成し遂げ、会社の歴史に足跡を残せたのですから。しかし、結局ここでとんでもない赤字を抱え込んだのでした。
父は信頼する番頭さんから提案を受けた海外事業に賛同しました。後から振り返るとそれが良くなかったようです。この番頭さんが、社内での自己保身のために懇意の経理担当の番頭さんと組んで、海外工事による赤字を隠蔽しました。父が何も口出ししないので、バブルまみれになっていきました。
1990(平成2)年、森本組は創業100周年を祝います。表向きは大変業績がよく、ピーク時は従業員約1,200人、売り上げ約1,300億円に達していました。父が引退、急遽社長に。そこで粉飾が発覚
私自身が粉飾決算の事実を知ったのは4代目社長に就任したときでした。父が予期せぬ病気をきっかけに会長職に引退することになり、1997(平成9)年に突然社長をバトンタッチされました。社長交代をプレス発表した直後、番頭さんから「実は……」と粉飾決算のことを告げられたのです。皆さん、もしこんな場面に直面したらどうしますか? 「いや、俺も社長辞めるわ」と言えますか? 私は気が弱いたちなので突っぱねることもできず、番頭さんたちを集めて「みんなで頑張って業績を伸ばして、粉飾を解消していこう」としか言えませんでした。
重い荷物を背負って社長になった私は、全く羽ばたけない状態でした。しかしそんなことは対外的に言えませんし、父親を責めることもできません。その父も引退後1年ほどで他界しました。
そして粉飾を抱えたまま、世の中はバブル崩壊を迎えます。金融機関の統廃合や貸し渋り、景気はどんどん悪化。「いろいろ頑張ってやってきたのになあ……」と東京支店長時代を思い出しながら悩む日々でしたが、誰にも相談できず、よい策もなかったので、最終的にはメインバンクにこの事実を伝えました。その後融資はストップ、すぐ民事再生してくださいと言われます。粉飾決算の責任を問われ経営陣は全員退陣しました。 今はおかげさまで無事再生でき、スポンサー企業である大豊建設の子会社として元気に事業に励み、業績もしっかり上げています。以上が一連の流れです。会社経営について、失敗から学んだこと
粉飾の一連を振り返ると、原因あるいは自分に欠けていた点は主に四つあったと思います。
①先代が海外工事に手を伸ばす際、十分な検討が行われなかったこと。
件の案件はサウジアラビアにおける淡水化プラントの土木工事はじめイラク・イランの中近東での土木工事だったのですが、当時の同社のスペックでは困難だったはずなのです。新領域への進出には大きなリスクが潜んでいるので、十分な検討は必須だとつくづく思いました。
②準備なく社長に就任したため、幹部メンバーの選定が不十分だったこと。
とりわけ金庫番となる経理担当は自分の目で信用できる人物を見極めて登用すべきでした。粉飾に関わった当時の番頭は、先代の信頼が厚いだけでなく、私自身も新人時代に師事した役員だったので、遠慮があって退いてくれと言えませんでした。感情や過去の功労はいったん割り切ってよい組織づくりのための責任感を強く持つべきでした。
③粉飾決算解決のための決断で強いリーダーシップを発揮できなかったこと。
私は何も考えることができずメインバンクに駆け込んでしまったわけですが、何か方策があったかもしれません。発覚時点で、私が退任してでも、解決のためドラスティックに速やかな方向転換を決断すべきでした。 ④親身に相談できる人がいなかったこと。
日頃から社外人脈の構築をしっかりしておくべきでした。利害関係のない間柄で相談できる人物、例えば顧問ではない外部の弁護士、他のオーナー社長で親しい友人がいればよかったと思います。一個人として失敗から学んだこと
個人としての学びもいくつかありました。特に大事なのが、共に経営責任を分かち合う同士が経営陣の中に必要だということです。先代の時代から親族が社内におらず、私自身の周りにもブレーンと呼べる人物がいなかったので、真の意味の同士は皆無でした。先代父は、同族他社のいろいろな問題を気にして敢えて孤独を選択したのだと思います。
そして金庫番を厳選することは先述の通りですが、同時に取引金融機関の担当者との信頼感も大切にせねばなりません。世の中うまくいかないもので、自分と相性のよくないタイプの人が担当になると本当に苦労します。これも実に勉強になったことの一つです。
本当に良かったのは、肩書がなくなっても変わらずに接してくださる方々のありがたみを実感できたことです。民事再生以降、外部の人の行動タイプは「スーっと去ってく人」「今までと変わらず付き合ってくれる人」「以前は距離があったのに近づいてきてくれた人」、見事に三つに分かれました。特筆すべきは名刺交換程度の関係だった上場ゼネコンのオーナー社長が心配して声をかけてくれたことで、驚きと感謝でいっぱいでした。その方とは今でも親交が続いています。企業や若者の役に立ち、楽しく仕事をしたい
私は67歳になり、2023(令和5)年4月から古巣である森本組の営業サポートに携わっています。今後は自分で立ち上げたビジネスコンサルティングの会社で皆さまのお役に立ちながら、楽しく仕事をして余生を送りたいと考えています。失敗したこと、つらかったことは全て学びである、私はそう理解して仕事も人生も楽しむつもりです。
また、学びを生かして若い方々の力になりたいとも思います。以前ある大学で「社会に出て失敗し、どん底に落ちたときいかに這い上がり乗り切るか」について話したら、学生たちが非常に感銘を受けたと言ってくれました。このように若い世代に役立つものを残していくことも、私のこれからの役目なのではないかと考えております。